大学図書館の閉鎖性
久しぶりに柳広司に共感した。
あんまり知らないって人のために言うと,私もこの人の著作は1冊も手に取ったことはない。岩波書店が発行する雑誌『図書』に連載しているので,月に1回この人の文章を読むことになる。ファンでも何でもない。
なにに共感したかというと,大学図書館の閉鎖性にまつわるエピソードである。
柳は新型コロナウイルスが感染爆発を起こす直前に,某国立大学図書館の前に転居した。大学図書館に通いながら余生を過ごすはずだったらしい。
ところが,コロナの流行によって,一番の目的だった大学図書館はその門を固く閉じた。しばらくして,市立図書館などが感染対策をしながら再開した後も,大学図書館は「外部利用者」の利用を禁止した。らしい。
まったく利用できないわけではなく,とてつもない面倒な手続きを経て,市立図書館に届くことには届く。だが,資料最終を目的として図書館を利用している人はわかると思うが,こんな利用方法は「はがいがねー」のである。
柳はキレる。
不可解だった。カフカ的に,実存主義的に,絶対的に不可解だった。
(柳 2022: 11)
ゲバ棒時代の教養主義的インテリ,もしくは老害インテリとでもいおうか,ここに極まれり。と思うような,というか思われるようなキレ方である。
けれど,こればかりは柳が老害といわれようが,激しく同調する。大学図書館の外部利用制限はここだけではない。いや,なかったと過去形にしなければならないが。
本当に不便だった。論文を読もうとしてもまったくアクセスできない2年はつらかった。講義を優先する気持ちはよくわかる。学生が一番である。それもよくわかる。
利用制限緩和以降も,貸し出しは基本的に禁止。コピーを取ろうにも30分以内の利用時間制限があれば行きたくもなくなるというものだ。もっと学問を求めるものに門戸を開いてほしかったというのが正直な感想である。私の場合は国立ではなく市立だ。市立大学ならなおさらだろ。こちとら市民だぞ。