ゴリラの社会科

授業で扱ったことをあげていきます。

ロールズの誤読が呼び込む最終戦争論に社会科教育はどう立ち向かうか。

 

リベラルの危機

最近リベラルが危機に瀕していることを指摘したり,リベラルをテーマにする論考を目にする気がする。ドナルド・トランプ元大統領誕生とともに,アメリカのリベラルデモクラシーは大きく揺らいだのだろう。

 

社会科教員のくせに,リベラルデモクラシーに詳しくない。正直なところ,リベラルの危機に無関心ですらある。

 

リベラルな国際秩序の建設の挫折

『万民の法』で示されるロールズの議論は,「リベラルな国際秩序を,リベラルな諸国民衆によって成らしめよ」ということであるらしい。リベラルな国内体制を作り上げるだけではなく,それを国際関係にも拡張することを理想として掲げているのである。

リベラル万歳。万国のリベラリストは団結せよ的な?

 

本書が世に送り出されたのは1999年である。冷戦が終わり,アメリカ一強の国際秩序がつくりだされていく中,リベラルな民主主義だけが理想の政治秩序のモデルとして信じられた高揚感がそこにはあった。アメリカは世界最強の軍事力を背景に,積極的に紛争に介入し,「世界の警察」としてふるまった。

 

試しに「世界の警察」をCiNiiで調べると,三浦一夫,1999,「アメリカの『世界の警察官』戦略とアジア」『前衛』(711),6-15.がヒットする。残念ながら近場にはないので読めないが。

 

当時は,リベラルな民主主義の担い手であるアメリカが,他国の危機の克服のために積極的に関与することで,リベラルな諸国からなるリベラルな国際秩序を建設していくという世界線が現実味をもっていたことが伝わってくる。

しかし,「世界の警察」に陰りが見え始めた。CiNii上では池内恵細谷雄一久保文明,2013,「座談会 オバマの『軍事介入見送り』は何を意味するか アメリカが『世界の警察官』をやめた日」『中央公論』128(11),98-109.に代表されるような論稿が数多く掲載され始める。

 

今日でもアフガニスタン撤退,イラクリビアの現状は,リベラルな民主主義国家の建設プロジェクトの失敗を物語っている。

 

ロールズの誤読が呼び込む最終戦争論

そんな時代にロールズの『万民の法』はどう読まれるのか。国際法・西平等は「自己反省を促す機縁」としての価値を認める。具体的には「国内・国際秩序を貫く理念を提示する本書を自己反省的に読むことによって,国内/国際の区別を前提として知らず知らずのうちにダブル・スタンダードに陥ってしまう自らの姿勢を正す」ことである(西 2022: 29)。

 

ロールズは「リベラルな諸国の民衆の間には戦争が生じない」という「事実」を繰り返し説く。これはつまり「リベラルな諸国の民衆が戦争をするとするれば,それは(中略)無法国家との戦争意外にはあり得ない」(ロールズ 1999=2022: 75)ということを意味する。

 

西はこの事実命題に警鐘を鳴らす。

 

ロールズがいう「寛容」の原理の適用範囲は「良識ある諸国民衆」までであるとして「無法国家」はその範囲外にある。したがって,リベラルを自認する民衆が何らかの理由で戦争に突入するとき,その相手は国際社会において正当な地位を与えられない無法者となる。

無法国家に対する寛容を拒絶することは,リベラリズム,ならびに,良識あるということの当然の帰結である(ロールズ 1999=2022: 131)。

 

この結果,戦争は国際社会の正当なメンバーとそうではないものとの非対称的な敵対関係となる。

このような差別的な戦争を,カール・シュミットは「法外放置(outlawry)」とみなして批判した。法外放置とは,悪質な犯罪者から共同体の構成員としての地位を剥奪し,構成員に認められる一切の法的保護を剥奪するという,前近代的な刑罰である。法外放置の対象者は「人」として扱われることはなくなる。

 

このように戦争を「戦争」としてではなく,「事変」として処理されたという歴史が日本にはある。このとき,日本は中国を無法国家とみなし,中国民衆を「人」として扱わなくなっていった。ここに「平等」の原理などない。このときの日本民衆が,良識あるリベラルな民衆であったかどうかは別として。

 

こうしたロールズの議論は最終戦争を呼び込む可能性がある。

ロールズはそうはいっていないのだが,「リベラルな国際秩序はリベラルな諸国民衆より成る」と誤読されたらどうだろうか。

 

リベラルな諸国の民衆だけが,安定したリベラルな国際秩序を構成するのだとすれば,戦争のない国際秩序を実現するもっとも実効的な方法は,武力を含むあらゆる手段を用いて,問題のある諸国の人々をリベラルな(もしくは良識ある)民衆に改変することだと考えられる。この論理を貫徹しようとしたとき,それは戦争を廃絶するための最終戦争が正当化されてしまう。

 

ロールズの誤読に社会科教育はどう立ち向かうか

ものすごい格好つけたタイトルになってしまったが,結論なんてないぞ。と先に布石を打っておく。

 

ロールズの誤読が呼び込む最終戦争論をおさらいしよう。

リベラルな諸国の民衆だけが,安定したリベラルな国際秩序を構成するのだとすれば,戦争のない国際秩序を実現するもっとも実効的な方法は,武力を含むあらゆる手段を用いて,問題のある諸国の人々をリベラルな(もしくは良識ある)民衆に改変することなり,それは最終戦争論を正当化する論理となる可能性があるというものだった。

 

この最終戦争論は,しばしば,社会科の授業でも登場するのではないだろうか。

 

歴史でも公民でも,どのように平和な国際社会を実現するのか,という単元を貫く問いが考えられる。公民的分野の場合を考えると,3年生も終わりを迎える3学期の初めに,国際社会における日本の役割と共に考える問いになる。

 

そのとき,生徒の反応として当然考えられるのがこの最終戦争論である。しばしば「大人」は隣の北朝鮮イスラム過激派や極左思想を「無法者」や「無法国家」という言葉で語り,彼らを国際秩序への挑戦者として描く。ロシアのウクライナ侵攻もまさにそうした言説空間で語られている。そこではあたかも「正統的な良識あるリベラルな国際秩序」が前提とされているようだが,そこに戦時の敵対関係を緩和するような寛容の原理は働かない。

 

先に私は「戦争の時代に送る平和教育の意義は?」と題する記事を書いたが,そこでの指摘が少しつながったように思える。

 

繰り返すが,

・「戦争は悪い」という声を徹底的に潰してきたからこそ戦争がある。

・「戦争はよくない」という理念を共有できる空間は希少で,守るべきものです。

という言葉を改めて振り返り,リベラリズム論から少し離れてはしまったが,日本の平和教育の「平和」一辺倒に少しだけ期待したいと思ったのである。

 

参考文献

西平等,2022,「リベラルな理想の世界とリベラルでない現実の私たち――ロールズ『万民の法』をどう読むか」『図書』2022年11月号,28-31.

ジョン・ロールズ,中山竜一訳,1999=2022,『万民の法』岩波書店

世界の警察 | CiNii Research all 検索

 

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