ゴリラの社会科

授業で扱ったことをあげていきます。

犬ぞりをはじめて気づくよそ者感の正体 角幡唯介「裸の大地シリ―ズ」

 

久しぶりの角幡唯介

久しぶりに角幡唯介の本を読んだ。

北極圏の探検記をあさっていたころ,ちょうど『極夜行』に出会った。

今回は「裸の大地」シリーズの1作目,1匹の相棒犬「ウヤミリック」と狩りをしながら徒歩で北極圏を旅する『第一部 狩りと漂泊』と,2作目,犬ぞりで狩りをしながら北極圏を旅した記録『第二部 犬橇事始』について,気になったところをあげていこうと思う。

 

作品はこちら

 

 

 

よそ者感の正体

角幡は第二部の最後で犬ぞりを始めたことによる村人の変化について書いている。

 

第一部まで,角幡は「人力ぞり」で旅をしていた。このとき,シオラパルク村の人々は,角幡の活動にさほど興味を持たず,角幡と一定の距離をたもち接しているようにみえたという。ところが,角幡が「犬ぞり」を始めた途端,そうした距離がなくなり,村人たちはお節介ともいえるほどの積極的な交流が始まったという。角幡が犬ぞりを始めることを歓迎してくれていたのだ。

 

この態度の変化は何なのだろうか。

 

そしてこの交流において,角幡は自分たちの流儀を押し付けようとする村人の態度を不思議に思った。角幡が自分たちの伝統から外れた行為をしようとすると機嫌を損ねたという。例えそれが,角幡なりの合理性のもとで生み出されたものであってもだ。

 

こうしたイヌイットの態度は,個人主義者かつ保守主義者であることから説明される。

 

イヌイット個人主義で,それぞれの信念と経験のもと生じた差異を美点とする。過酷な自然の中では,各人が状況に応じて最適解を見つけなければならず,無批判の同調は愚か者で恥ずべき行為である。

 

一方で彼らはそれ以上に伝統や権威を重んじる保守主義者でもある。各人の思考のみに頼るのではなく,歴史の中で生き残ってきた先人の知恵を何より大事にする。

 

角幡はこうしたイヌイットの生態を「個人主義的な知恵と民族的伝統の双方が彼らのなかでは無理なく同居しており,それが交差する地点にひとりひとりの生のよりどころがある」という素敵な表現で表している。社会学的用語でいえば,「エートス」であろうか。

 

このイヌイットの生のよりどころの中心にあるのが「犬ぞり」である。

 

だからこそ,角幡が犬ぞりを始めたことは,単に犬ぞりをするという行為以上に,彼らの文化と伝統に敬意を示すメッセージになっていたのだ。だからこそ,彼らは自分たちの流儀を踏襲することを求め,角幡の伝統からの逸脱に不機嫌になったのであった。

 

そして見方を変えれば,それまでの「人力ぞり」による旅のスタイルは,その言外にイヌイットエートス否定のメッセージが込められているということでもある。角幡は角幡なりの合理性に則って「人力ぞり」を選択しており,そうした文化の否定なんてつもりは毛頭ない。しかし,その角幡なりの合理性とは,やはりイヌイットの合理性ではなく,どこまでいっても角幡なりの合理性にとどまっていたということだろう。その証拠に,「人力ぞり」から「犬ぞり」に変えた途端,村人の態度は変わったのだから。

 

私はこうした角幡の体験に思うところがあった。これってよくある田舎への移住者が感じるよそ者が鼻につく感じっていうのと似ているんじゃないかということ。

 

地域で生きる教員の不足

北海道において教員として働くということは,転勤することとイコールである。運よく地元周辺に赴任できればよいが,広い広い北海道でそんなことはめったにない。そうなれば,おのずと4~6年のサイクルで,知らない土地で生活することになる。

 

私はかつて岩手県の中学校で働いていたことがある。そこに赴任したときの校長の言葉が忘れられない。

「この中学校で働く教員は,この地域に住んでいないひとがほとんどだ。その多くが車で30分ほどの大きな町に住み,通っている。教員住宅に住み,地域で生活する教員として,地域とともにある学校教育に貢献してほしい。」

 

そのとき,これまで気にも留めてこなかった「過疎化の進む小さな村」を肌で感じた気がしたのだ。確かにこの町にもスーパーはある。けど,車で30分のその町には,大きなスーパーやドラッグストア,外食チェーン店がたくさんある。引っ越ししたとき,車で30分の距離に大きな町があってよかったと心から思った。実際,初期の食材集めや家財集めに何往復もした。あっちに住んでいる同僚が羨ましくもあった。そしてこの小さな集落に住む子どもたちを不憫に思ったこともある。

 

けれど先生としてこの集落に迎えられ,挨拶回りなんかをして,日々生活をしていくと,徐々に大きな町に行くことより,地元の小さなスーパーで買い物し,何もない海でたそがれ,その地域を探検し,たまにだが村人と酒を飲んだりする毎日に変わっていった。そして集落の一部になろうとする自分がいたことを覚えている。ある日,地元の商店に○○があって,それ買って食べたらめちゃくちゃおいしかったって話を生徒にしたとき,なんかこれまでの反応と違うなと感じることがあった。それは「先生も同じだね!」っていう共通点が一つ増えた感じだった。

 

たしかにこのご時世,車をかっ飛ばせば大きな町に行くことができる。そして別に地元のスーパーで食材を買ったからと言ってなんかなるわけではないと思う。けれど,その地域に思い入れがない教員が,総合や社会の時間に地域をよくする方法を考えようなんて言ったところでどこか空虚な問いであることを感じ取られるんじゃないだろうかと思う。子どもの裏には,この地域で働き,生活する保護者がいて,地域の人がいる。そして何より,子どもたち自身がこの町で暮らしている。

 

自身の言動が,生徒たちの現在の生活を否定しないかどうか,言外のメッセージも含め今一度考えていかないといけないと感じた。

 

追記2023/12/31

地球ドラマチック犬ぞりが放送されていた。

たった8日間と言えどその大変さが伝わってきた。

www.nhk.jp