ゴリラの社会科

授業で扱ったことをあげていきます。

自分の授業をどう振り返り,授業づくりに生かすのか

 

1.授業改善をしたいと思うか

 自分の授業をおもしろくしたいとか,よくしたいと思う気持ちはいつまで持続すんだろうかと思う。どこかでこのエンジンがかからなくなるような気がする。

 北海道の公立学校に勤務するものにとって,自分の授業実践を振り返り,同僚たちとともに授業づくりをすることには,大きな障壁がある。配置される教員は1教科1人は当たり前。そうなれば,教科間交流以外の振り返りは,自然とその個人の力量やアンテナの枠を出るようなものは難しい。

 

2.授業の振り返りの視点

 自分に授業を振り返る視点はあるのか。授業の構成,準備した教材や資料,生徒とのやりとり,発問などなど。けれど,研究授業で問われるような「生徒にとってどんな意味があるのか」「なぜこの授業でなければならなかったのか」といった根本的な振り返りは,だれかとのお話があって実現するもので,一人でやるのはなかなか難しい。こうした根本的な生徒観や授業観にまで踏み込んだ振り返りはやったことがないかもしれない。

 

3.生徒に挙手させない授業

 先日,ある授業を見たときに,すごく違和感を覚えた。それは先生が問いかけ,それに生徒が応えるとき,挙手したりせず,ぽろぽろと口から出た言葉を先生が拾っていく授業だったからだ。これは初めて見るスタイルだ。困惑した。

なぜ生徒が挙手しないのか,挙手して当てられて少し遠慮気味に,または誇らしげに答える姿を「よい生徒像」として念頭に置き,授業を組み立ててきた。

その先生は「私はそうした生徒観に立たない」と答えた。その先生は,子どもは中学生にもなれば,挙手して自分の答えを言うことは少しためらわれるものだと考えるもので,そこを矯正しようとは思っていないという。確かこんな回答だった。

だからこそ,その先生は指名しない。挙手させない。挙手して発表しようとする姿勢をとがめることはもちろんやらないが,とにかくその態度を求めないという。

 

 自分で授業を振り返る行為に,こうした衝撃は訪れない。こうした全く異なる生徒観に出会うチャンスは校内においてもめったにない。実際に,これまでそんな先生に出会ったことはない。

 

自分で授業を振り返ることには限界がある。まったく異なる視点を注入するためにはどんどん外の世界に出るしかない。正直,こんな研修を求めたい。生徒観を異にする先生たちがその生徒観を言語化し,実践で見せつけるような研修を。